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多くの教育についての問題が叫ばれる中、それをすぐに改善できない理由に
『国家の教育方針を変えることは難しい。』と書かれていた。
それを否定するわけではないけれど、僕は大きな理由の一つに
『才能の測りがたさ』が含まれると考える。
誰が何について、一体どれだけの才能を持っているかを測るのは限りなく困難なものだ。
血を吐くような努力と引き換えに手に入れた能力も、他人から見れば『才能』とみなされてしまうし、逆に結果が出なければ、ただ運の無かった人間も社会的には『才能無し』とみなされる事になる。
つまり大抵の人は才能というまだ未然の『発達する能力』を、『発達した能力』という結果によって測ってしまっている。
教育問題に置いてその矛盾は有ってはならないもので、『才能の芽』を生かす意味では第一に重視されるべきだ。
それでもそんな矛盾が産まれてしまうのは、何しろ小学校に行けば、そこにいる見渡す限りの児童全てに共通して『ピカソ』になれる可能性があり『夏目漱石』になれる可能性が平等に有る。
そしてそれは否定の仕様がない。
世の中の評価を受ける専門分野の数を数えればそれこそ限りがない。
『野球』よりも『カバディ』をする才能に恵まれていた大リーガーは絶対いる気がする。
そう考えると、そもそも『才能の芽』を生かすどころか見分ける事も無理に近い。
僕の知っている話では、有るアメリカの教育委員会かなんかの偉い人が、ペーパーテストでとくに目立った所もなく、才能のかけらも感じさせない少年数人を呼んで、彼らと彼らの周囲の人に、
『君は一見、普通の人に見られているけれど、すごい才能を持っているね。周りのみんなも良く彼を助けて大事にしてください。』
といった所、その全員が後に大きな成功を修めることに成ったそうだ。